タフター・ポータル

目次

概要

タフター人はtaftarl、つまり高原に住む農耕民族である。
タフタット語を話し、「高原の民」タフターニを自称している。
およそ2500年前より昔にラッビヤ人と同じ祖先から分かれた民であろうと考えられ、研究が進められている。
イェテザル山脈のタフター側はラッビヤ語ではヒェフュル(çöfür)、つまり「山の向こう」とよばれている。

言語

地理

jetesal山脈頂上の南東に広がる標高7-10Sfta(2200-3200m)の地域に村落を作って暮らしている。 乾燥した気候だが、河川やプレート境界で熱された地下水の自噴もみられ、暖冬による雪解け水の枯渇などに見舞われない限り水不足には悩むことはまずない。
東側には"暗い森"が広がり、木々がタフターニたちの燃料として利用される。また、西側にある尾根の切れ目(タフター回廊)を抜けて山を下ると南サニス共和国があり、 南側の麓から海にかけての地域には川沿いに広大な平野が広がっている。jetesal山脈の北側の海岸沿いには北方海岸自治政府(外部リンク) が位置している。
地理的にはdyin地域よりも南サニスへの移動の方がしやすく、交易もさかんである。
高山性の気候と火山性の温泉の影響を受けた生態系である。(タフターの生物)

民俗

日射しや砂埃をよけるため全身を覆う外衣を着てバンダナのような布で頭を巻き、亜麻の仲間であるジャットパール の繊維を編んだ靴底にキャンバス地の覆いを付けた長靴を履いているのが典型的な民族衣装。

タフターに自生していたヒユやキビの仲間を改良したものが栽培され、人々の主食となっている。 家畜は農耕用や毛を取るために飼育されるものが少数いるのみで肉食はあまり盛んではなく、代わりに川や湖からとれる魚が主なタンパク源。(タフターの料理)

伝統的な建築として日干しレンガで作られた家が多い。焼きレンガも存在するが、燃料の木材が貴重なため村の集会所など重要であったり精錬所などの耐熱性を求められる建物にしか使われない。
通常2階建てで、1階の床は土間になっているのが一般的。
近年になって都市部で建てられたものにはコンクリートが使用されたものも多く見られる。

宗教

タフターの民は、山頂を神々のいる空へ昇る場所と捉えており、山頂とタフターを行き来するフェンキュツを神の遣いとして神聖視している。
神々と人々の結びつきは弱くはないが強くもなく、節々の祭りの時に思い出したように祈る。

政治

中央議会は、村の長老が指名した人間を送っての合議制。村からの枠の他に人口が多い街からは選挙で選ばれた議員が数名参加する。
地方の村々のとりまとめを行う立場にあり、タフターにおいて外交、軍事および貨幣鋳造の権限を持つ唯一の機関である。
それぞれの村々が独立して内部で治めてきた歴史が長いため、村の内政に議会が直接関わることは少なく、資金の補助や顧問の派遣などを行う。

都はもともと行商隊ギルドによって治められており、中央議会が置かれてからは議会の直轄地となった。
直轄地ではあるものの、近年の人口の増加や連邦の影響を受けて間接民主制が取り入れられて評議会が設置され、3年ごとに選挙が行われている。

地方

内政のほとんどにわたっての高度な自治が行われている。
地方の村では長老のもとで家ごとの代表が話し合い祭祀や作物の刈り入れ、薪となる木々の伐採量などを決めている。 長老は男女どちらでもありえ、先代の長老によって指名された者が家の代表たちの同意を得て就任することが多い。 長老は強権の発動で話し合いの結論を出すことは出来るが、人口のそこまで多くない村で合意を軽視するとロクなことにならないので発動は緊急時に限られる。

軍事

タフターにおける軍は、行商隊が安全のために雇っていた護衛が交易のハブである都に集中して結成していた組合を統合して作られた。
中央議会の設置された当初はタフターは軍を持たず軍事権も村ごとにあったが、南サニスの侵攻を警戒した議会のphil.2008年の決定で村の軍事権を議会に委託させ、 国軍として組織された。初の実戦はタリェナフ率いる南サニスとの4年に渡る戦争である。タフター軍は発足からわずか3年の練度が低い寄せ集めの集団に過ぎなかったが、 南サニス軍も財政危機によって士気が著しく低下しており銀山を防衛することに成功した。

経済

古くからピーシャを用いた行商隊による村々の間での交易が存在していた。この交易網はかなり広く、 南サニスや北方海岸、時には山脈を越えてラッビヤの民とも取引がなされている。
生産できる作物の地域差が著しい高地において行商隊は非常に重要な存在であり、 東部の村から運ばれる木材と川沿いから取れる水産物、北西部の亜麻と南部のケイトウなど様々なものを村々へと供給する役割を担っている。 かつてピーシャの間で病気が流行し交易が行われなくなった年には人口の2割が死んだとされる。手紙を届けるのも彼らの役目とされ、文通の文化がある。

およそ1200年前には銀で作られた貨幣が流通しており、現在では議会に隣接して中央銀行が作られ、貨幣の鋳造量などを調整している。

産業

農業

村々で行われるキビとヒユの栽培が非常に盛ん。他の伝統的な農業としては、ガヴォトキルの果実をとったり西北部のジャットパールを栽培したりというものがある。
近年拡大を続けている農業には灌漑による小麦栽培が存在する。これはユエスレオネとの接触でパン食の文化が輸入された影響をうけている。

畜産業

毛や乳をとるための羊の飼育が盛んである。昔ながらの遊牧もごく一部残ってはいるが、ほとんどは放牧や畜舎の中で行われている。
毛は衣服をはじめ敷物に加工されたり行商隊のテントになったりと、暖かさを求められるものに活用される。

酪農は、生乳が飲用とされることは少なく、ほとんどがチーズ作りにまわされ残りはバターにされる。古代にはチーズは羊やグアナコの仔の胃袋の酵素を利用して 製造されていたが、phil.1600年頃に乳中のタンパク質を凝固させるはたらきのある菌が見つかったことでそちらを利用した製法も登場した。現在は旧来の製法で精算されるチーズは全体の1割程度になっている。

連邦との接触をきっかけに輸入された肉食文化が都市部で広がりを見せており、食肉用に牛や豚をdyinから輸入して飼育する農家も数を増やしている。

水産業

河川および温泉からの淡水魚の漁業が盛ん。養殖や栽培漁業も見られる。

鉱業

都の銀山はほとんど操業を停止しているが、別の山が見つかっておりそこで採掘が行われている。
連邦やxelkenから取り入れた技術を用いて電気精錬が行われている地域もあり、効率化が図られている。

歴史

先史時代

現在のタフターニたちは大陸の南側を移動してきた遊牧民族からおよそ2500年前に分化してできた一派が 山脈の東側に沿って北上しタフターへ入り込んで定住したのが起源であるとされる。

タフターニが侵入してきた時には、タフターはところどころにユスティール(キビ)を初めとする雑穀・シダやガヴォトキルなどの灌木が生えているだけの 荒涼とした原野であったとされ、侵入してからおよそ100~200年ほどはタフターニは遊牧を続けていた形跡が見られるが、やがて遊牧をやめて定住する者が だんだんと数を増やし始め、遅くともphil.600年ごろには今のような村落が形成された。

この間に遊牧を続け東部へと進んでいた人々がフォトヴィール(ヒユ)に出会い、それが定着して標高の低い地域で栽培されるようになったと言われる。

近代以前

しばらくは遊牧を続けていたタフターニであるが、地理・気候の変化で家畜たちの食べる草木の生えている土地が減り、遊牧はほぼ見られなくなる。定住しなかった者はやがて村々を巡って物流を担う代わりに家畜や人間の食料を供給してもらう行商隊へと変わっていった。ピーシャへの乗り換えで遊牧数を減らしていた馬はこの環境の変化についていけず、タフターからはほとんど完全に姿を消して東部の低地にごく一部がいるだけとなった。

1300年ほど前のphil.751年に現在の中央政府が置かれている場所で銀鉱が発見され、そこに行商隊が集まったことでギルドが置かれ街が形成された。phil.797年にはここの銀を用いてタフターで初めての貨幣が鋳造され、経済の中心となった。この鋳造所が現在の中央銀行であり、この時期から、タフターにおいて都といえばこの地域を指すようになった。

主権国家へ

phil.2003年のdyin戦争が終結すると、主権および国境を早急に確定させたい連邦からの強い要請で暫定主権委員会が発足した。
この委員会はほとんどが都の有力者であった行商隊によって組織されていたが、様々な地域の出身者から構成され各地を巡るという行商隊の特徴が幸いして 比較的都と村の意見の隔絶が生じるような交渉にはならなかった。なお条約の成立で他国と同様に中央政府を置かねばならないことが確定したため、 委員会は外交の他にも政府のあり方や権限を議論したり、実現に向けた村々との交渉や法整備も行っている。

phil.2004年の1月1日にタフター・南サニス・ユエスレオネの三国間でカイティワ条約が発効し、暫定主権委員会が解散して中央議会が置かれる。カイティワ条約時点ではタフターの版図はjetesal山脈より東側の地域一帯を含み北海岸にまで達していたが、この版図はdyinの統治に集中すべく国境の策定を急ぐ連邦の意向で決まったものであり、両地域は民族も違い帰属意識も完全に別であったため、3月には北方海岸自治政府が成立し平和裏に分離独立して連邦政府に承認され、現在の国境が確定した。

四年戦争

phil.2008年には隣国の南サニスで王となっていたターフ・ヴィール・タリェナフ(外部リンク)が暴政に走ったことで南サニス財政が悪化したため、タフターの銀山が狙われるのを警戒した議会は国軍の創設を可決し、村の軍事権はまとめて中央議会に委託されて運用されることになった。

更にphil.2012年には南サニスが一方的にタフターへ宣戦を布告、都を目指して侵攻を開始し四年戦争(外部リンク)が勃発した。地方、特に回廊付近など西部の村は制圧されて『イェスカか死か』を強制されいくつかの村は滅ぼされたが、都は陥落を免れ、phil.2016年にターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユ(外部リンク)がタリェナフを追放して講和を申し入れるまでの間独立を保った。

制圧された村もイェスカを受容すれば部隊が駐留するだけで特に酷い圧政はなかったとされ、そのため戦後処理が終わった後もタフターニの南サニスに対する感情は多少悪化はしたものの民族的憎悪に至るほどのものではなく、今も交易や大使の交換が行われているなど盛んに交流がなされている。